NPO法人日豪スポーツプロジェクトは、オーストラリアの個性溢れる著名人(とは言っても偉人とか有名人ではありません)の講演活動をサポートしています。
どのような状況でも諦めない精神を持ち、生きることに一生懸命なナイスガイであり、そして彼らは気さくな友人です。
オーストラリアにはモチベータ―と呼ばれる人材が多く存在しますが、 その多くがスポーツ関係者です。
「元気な国オーストラリアのスピリットを日本に届けたい!」
そのような気持ちで学校や企業向けに講演活動を続けています。
興味を持たれましたら、お気軽にお問い合わせください。
《過去の講演活動》
白血病と闘いながらラグビーのコーチを続けるニック。
彼の症状に有効な新薬を長年オーストラリア政府が認可せず、
高額な薬代に苦しみながら家族を養う日々。
スポーツで鍛えた彼は「どうして俺が・・・」と何度も挫けそうになる。
友人や仲間がファンダライジング(募金)活動を続け、それをマスコミも取上げ、政府がその薬を認可。
同じ症状で苦しむ多くの人達に光を与えた。
2002年、 2003年、2004年に日本で講演「生きる」を開催。
2005年~2007年 トヨタ自動車ラグビー部コーチ
2008年~2011年 カタールラグビー協会ナショナルチームコーチ
2012年~OZルール・アデレードコーチ
講演「For One For All」 ~愛娘のために何が ~
クレイグ・ガゼィ
クレイグは幼い愛娘を小児がんで失う。
病床のジェシカ(7歳)に、クレイグは「シドニー~ゴールドコースト間1000kmをサーフスキーで漕破してみせる!」と約束をする。 愛娘ジェシカを励ますための父と娘の約束だったが・・・
クレイグは果敢にその約束を果たそうと挑戦する!
低気圧で海は荒れ、サーフスキーもろとも一飲みするような巨大なサメが並走し、その恐怖との闘いの日々だった。
サーフクラブやライフセイバーズクラブが世話を申し出て宿泊や食事を提供、そのお礼にクレイグは自らの挑戦を講演し、その話が口コミで広がり始め、それに伴い援助の募金活動が始まった。
クレイグはジェシカとの約束を果たし、ジェシカも奇跡的に快方に。
しかし喜びも束の間、癌がジェシカの肘に再発。
そしてジェシカは片腕を失うこととなる。
抗癌剤治療で髪の毛は全て抜け落ち、それでも根を上げないジェシカにクレイグは再び約束をする。
マラソンと自転車とサーフスキーを使い、パース郊外のアルバニー~シドニー間5000kmのとてつもない挑戦。
クレイグは勇んで挑戦するが、その途中でジェシカは天に召されてしまう。
悲しみに耐えながら、クレイグはジェシカのために約束を最後までまっとうする。
そのクレイグの挑戦をマスコミも知るところとなり、2回の挑戦で5000万円の募金が集められた。
クレイグはそのすべてを「小児がん基金」として寄付。
2009年にはオーストラリア全土12500kmをマラソンで挑戦。
更に集まった募金(約5000万円)の全てを「小児がん基金」として寄付。
オーストラリアデー・アンバサダー(建国記念日大使)として講演活動を続けている。
2007年日本で講演「For One For All~愛娘のために何が~」開催/品川プリンスホテルにて
集った募金を大阪の「チャイルド・ケモ・ハウス」(小児がん治療中の子供たちとその家族のサポートを目指すNPO法人)に
全額寄付。
2009年ベストファーザー受賞
2011年フジTV「アンビリバボー」に取り上げられる。
勝者はチャンスをものにする
オーストラリアラグビー界の至宝
デビッド・キャンピージー
世界中のラグビー界で知らない人のいないキャンピージ・・・
彼にもスランプの時代があった。
1987年第1回ラグビーW杯でワラビーズは予想外の不振に終わり、
世界のラグビー界はニュージーランド一色染まっていた。
JK(ジョン・カーワン)が世界中の人気を独り占めの状態だった。
かたやキャンピージは、ライオンズとのテストマッチのミスが取り沙汰され、マスコミからは引退!とまで囁かれていた。
息子の危機を救ったのは、彼の母親が贈った詩「勝者はチャンスをものにする」だった。
1991年第2回ラグビーW杯でワラビーズは世界の頂点に駆け上がり、キャンピージはその大会のMVP(最優秀選手)選出された。
2003年に銀座マリオン「朝日ホール」にて「第5回ラグビーW杯の展望」を講演。 2004年に大阪体育大学ラグビー部監督/関西ラグビーフットボール協会会長「空飛ぶウイング/坂田好弘氏」と有楽町外国人特派員クラブにて対談形式による講演。
ミニ講演は日本各地で行われ、偉大な足跡の裏側に隠された彼の素顔が感動を与えた。